南州翁の生き方

南洲翁の生き方

西郷南洲翁遺訓  ~西郷の遺訓と精神は、いつどこで、どうして出されたか~ 
 
南洲翁の教訓が「南洲翁遺訓」として、始めて世に出されたのは明治二十三年一月であって、実は山形県鶴岡の庄内藩の人々によって出版されたのである。翁の遺訓が地元の鹿児島から出ずして、庄内藩から著わされたことについては深い事情がある。

今この事情を尋ねるに、庄内藩は明治維新の当時まで会津藩と共に熱烈な佐幕派で、徳川の為に最後まで忠義立てした藩であった。越後から東北地方、北海道を平定せんとする明治元年の戊辰の役に、官軍の総参謀として庄内に向かった西郷は、藩に対して寛大なる措置をとり、その誠意溢るる西郷の人物は庄内藩士に深い感動を与えずにはおれなかった。

そこで、明治三年には庄内の藩公酒井忠篤以下七十人は、はるばる鹿児島に西郷を訪ねて百余日の間、南洲翁に就いて教訓と兵学を修めた。超えて明治八年には、また藩の重臣菅実秀が八人の青年を引きつれて南洲翁のもとに至り、二十一日の間翁の教えを親しく受けた。

南洲翁が私学校を開かれるや、明治八年九月に庄内藩の戸田、池田、黒谷の三人は翁の膝下に参じた。間もなく同年十二月には、私学校入学を熱願する伴兼之(十八才)と榊原政治(十六才)の二人をつれて伊藤孝継が鹿児島に入り、翁にこの二人の入学を懇請した.翁は、他県の人は応じ難いが貴県は特別であるとして入学を許可せられ、篠原国幹の家に宿泊させて通学せしめられた。

かくして、庄内藩と南洲翁との間には実に因縁浅からざるものがあるのであって、翁の教えを受けた庄内の藩士や青年たちは翁に就いて手記した教訓を集めて、これを「南洲翁遺訓」として出版することとし、その初版が明治二十三年一月に上梓されたのである。

これが南洲翁遺訓として初めて世に出されたものであって,後世に永く伝えられることになったのである。   
                 

道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我れを愛する心を以て人を愛するなり

(人間の道は、天地自然のものである。人間は天地自然の賜物であり、また天地自然を本として生存しているのであるから、天地自然を敬うことが人間本来の目的である。しかも天地自然は他人も自分も同様に愛されているから、自分を愛する心をもって他人を愛しなければならない。これが天地自然の道であり、同時に人間の道である。)

南洲翁の有名な「敬天愛人」の思想は、この一節から出ている。実に、すばらしい千古の大教典というべきである。人間の道を天地自然におかれたことは、天地自然は真理であり神であり、愛であり仁であるからである。

この思想の中には、人間の小ざかしい自我的な考え方や個人主義的な哲学は微塵もない。正義も人道も平和もその原は敬天愛人に発し、人権尊重も平等博愛も尊皇安民もみな敬天愛人の表れである。大教育者のぺスターロッチは「愛はすべてのものに打ち勝つ」と言い、修養団では「愛なき人生は暗黒なり」と教えているが、南洲翁は「」ばかりではない、「」を根本として説かれておられる。そこに「敬天愛人」の崇高なる真義がある。

南洲翁は、いたるところで敬天愛人の思想を説かれている。あとで示す漢詩の中でも
「天心を認得して志気振う、千秋動かず一声の仁」と、

すなわち天心を認得することは天を敬うことであり、一声の仁とは人を愛することである。
また、学問の本旨を説かれるに当っても「王を尊び民を憐れむ」と、
すなわち天孫を尊び、人民を愛するにありとされているのである。元来、人間は神の子である。人間には神性が宿っているのであって、良心とか誠とか愛とかは神性そのものである。また、人間の生命も大自然の生命そのものの中にあるのであって、自分の身体も実は自分のものではないのである。それを、人間は気づかないでいる。南洲翁が、人間の道を天地自然において敬天愛人を説かれたことは、こういう深い根本にふれているのである。宋(中国)の張横渠という人の有名な言に「為天地立心万世開太平」(天地の為に心を立て万世に太平を開く)というのがある。

天地の大道に立てば、いつまでも平和と繁栄が続くのであって、南洲翁は更にこれを深めて的確なる「敬天愛人」の思想に発展せしめられたのである。敬天愛人の思想はただ人道の大本であるばかりでなく、世界の平和を維持する上にも基本となるものである。
     

人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし

(人を相手にしないで、天を相手にしなければならない。人を相手にしないということは、人間は他人のことばかりを気にして、他人の見ている前では悪いことをしないが、他人が見ていないとか他人が知らないとかなるとどんな事でもしたがるものである。そこで、いつでも天を相手にしておれば悪い事などはできない、また間違いもない。)

どんなに隠しても天知る地知るで、ついには人も知るにいたる。いわゆる、俯仰天地に恥じないことが、一番大切である。それにはいつも天を相手にして自分の誠をつくさなければならない。
人を咎めたり、あるいは自分が善いことをしながら他人を恨むことなく、ただ自分が誠をつくしているかどうかを責めるべきである。

人を愛することと人を相手にしないこととは一寸矛盾しているように見えるが、ここで説かれた南洲翁の「人を相手にせず」とは、己の独りを慎んで誠を表すことを強く要求されたものであって、それはまた同時に人を愛する事にもなるのである。前にも述べたように、人間には神が宿っている、誠はその神である。
心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」の古歌にもある通り、誠そのものが神であるのである。

思うに、南洲翁の一生は「誠」の一字に尽き、いつも身に宿る神の誠を引き出されたのである。僧の月照と共に海に投ずるも,孤島の島流しにあっても、勝海舟と江戸城の明け渡しを談ずるにも廟堂(政府)にあって大陸経営を論ずるも、また子弟のために黙して城山の露と消えるも、要するに一個の至誠にほかならない。
「天を相手として、人を咎めず我が誠の足らざるを尋ぬべし」とされた南洲翁の遺訓は、実に千古の大教訓であって、ここにもまた「敬天愛人」の真心が表されている。
    

己を愛するは善からぬことの第一なり。修業の出きぬも、事のならぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐り驕慢(おごりたかぶる)の生ずるも、みな自分を愛するが為なれば、決して己を愛せぬものなり

(己を愛する、すなわち自分さえ良ければ他人のことなどはどうでもよいとするのは、人間として善からぬことの第一である。修業のできぬのも、事業の成功しないのも、過ちを改むることできないのも、またおれがおれがで鼻を高くするのも、みな自分を愛するがためである。それは、本当に自分を愛するというものではなく、利己主義や個人主義の代弁である。こういうおのれの愛し方は深く慎まなければならない。)

いつの時代でも、物欲や名誉欲のための我利我利盲者は絶えないが、また今日の世相と人心ほど、南洲翁のこの遺訓を必要とする時代はない。明るい社会が出来ないのも、社会に争い事が絶えないのも、人物が出来ないのも、事業に失敗するのも、その多くは根底において自分だけを愛するからである。

人権尊重も男女同権も結構であり、民主主義も組合主義も結構であるが、一番大切なことは本当の自分を見失わないと同時に、正しい行動をして、更には人のため世のために誠をもって尽くすことである。

「己に取りこむものは八分に止め、二分は天に預くべし」と古い諺にあるが、今は己れに取りこむ一方で、生活も人生観も利己の一点張りである。
これがために、社会もなければ国家もない人々がある。

凡そ人間のなすべき、またつくすべきことは「何が得するか何が楽しいかよりも、何が正しいか何が尊いか」である。神仏を信じて心の静安や悟りを開き、人道や正義を重んじて太平を開くと共に、社会への奉仕もあって然るべく、国家への奉公もあって然るべしである。

アメリカの若き大統領ケネディは、その就任に当り「国家が国民に何を与えるかよりも、国民が国家に何をつくすべきかが大切である」と述べた。
実際に、献なき社会は発展せず、献なき国家は亡ぶに至る。南洲翁は己の利得や名誉を捨てて、天道に基づいて天下を経営なされたのである。明治維新が世界に誇る成就を見たのも、南洲翁らの己を愛しない献身的な働きから生まれたものである。
     

命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬという人は,仕末に困るものなり。然しこの仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様の人は凡俗の眼には見得られぬ者ぞと申さるるに付き、孟子に「天下の広居におり、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と謂いしは、いま仰せられし如き人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬなり

(名もいらぬ、金もいらぬ、命までもいらぬ、こういう人はよほどの大馬鹿ものである。しかし、こんな仕末に困るような大馬鹿ものがいなければ、世の中は治まらぬのである。歴史もつくり出されないのである。

事業を行うにしても、損得だけを考えては決して成功するものではない。まして、国民のために国家のためにつくすべき政治家や指導者が、名誉の為に、財利の為に、また保身の為に終始するならば、それは私の為の政治である。
これは政治家だけに限ったことではない、教育者としても然り、また一般の人間としても然りであって、要は正しいこと、聖なるものには、精魂を打ち込んで命がけでかからねばならないことを説かれた遺訓である。)

ここで引用せられた「孟子」(四書の中の一つ)に「天下の広居のおり、曰々」は、大丈夫(立派な優れた人物)の気性を表したもので、昔からよく引用せられる語である。南洲翁は、道の為なら、国の為なら、名も金も命もいらぬとされたのであって、それは政府にあっても野にあっても同じで、正に大丈夫の気象をそのままに生き抜かれたのである。

この「名も金も命もいらぬ」の遺訓は、また非常に有名なもので、西郷の西郷たる本領を遺憾なく発揮されたものである。そして、前に掲げた「天を相手とし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」とされた遺訓を、ここで更に強めて、道の為なら国の為なら名も金も命もいらぬと、至誠と真心を披瀝されているのである。

南洲翁が世界の大偉人と仰がれるのは、このような信念に徹しておられたからである。

実際、物質文明が氾濫し道義が頽廃し、気象が失われ国家が危なくなるときに、いつも西郷が飛び出して来て精神界に活を入れる。また、国本を忘れあるいは歴史と伝統を顧みない政治や教育が横行するときに、いつも西郷が飛び出して来て世の松明として光る。南洲翁の遺訓はみな万古を貫く師表である。その本源は「敬天愛人」の思想と、この「没我奉仕」の精神から発している。
    

道を行う者は、もとより困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否や身の死生などに少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、者には出来る人出来ざる人ありて、おのずと心を動かす人あれども、人には道を行うもの故、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管道を行い、道を楽しみ、若し艱難に逢ってこれを凌がんとならば、いよいよ道を行い道を楽しむべし。予(自分)は壮年より艱難という艱難にかかりし故、今は如何なることに出会うとも動揺はいたすまじ。それだけは仕合せなり

(道徳を守る人には、苦しいことがある。しかし苦しいからといって、道を避けてはならない。道というものは、事の成否や身の死生に超越するものであり、また道を行うのに上手下手もない。艱難や逆境に打ち克つには、それこそ修養が必要である。自分は二度も島流しに逢って艱難を極めたが、却って修養に努め、いやしくも道を踏み外すようなことはしなかった。だから、どんなつらいことが起こっても挫けるようなことはない。それだけは自分にとって仕合せなことであった。南洲翁の詩に「幾たびか辛酸(難儀)を歴て志始めて堅し」と詠まれたのも、このことである。)

旧い中国の本に「菜根譚」というのがある。その一番始めに、こう書いてある。すなわち、道徳を棲家とする者は、とかく不遇に陥って一時は寂しいが、金や名誉に浸っている者は、栄華に見えていて、実はあとで寂しいものである。

「歓楽極まって悲哀多しとも言われるが、道ならぬ歓楽は悲哀のもとである。」

また、逆境にあって修養の大切なることを説いたものとして、中国の荀子という学者は君子(立派な人)の学として、

「それ、学は通の為にあらざるなり。窮して困まず、憂いて意衰えざるが為なり、禍福終始を知って惑わざるが為なり。」
と説いている。

つまり、学問は物知りになることではない。また大学受験や就職のための通のものではない、逆境や艱難に出合ったときに、これを乗り越えていくために修養するのが、学問であるとしている。

また、「中庸」という本(四書の中の一つ)に
「君子はその位(境遇)に素して行い、その外を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧賤に行い、夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。君子は入るとして(如何なる境遇にあっても)素行自得せざるなし。」

とあって、貧乏や逆境にもその然るが如く自得していくというのである。南洲翁は朝にあっても野にあっても、素行自得されて何もあくせくされなかった。
    

道を行ふ者は天下挙って毀けるも足らざるとせず、天下挙って誉めるも足れりとせざるは、自から信ずるの厚きが故なり。その工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ

道徳に生きる者は、人が笑おうが褒めようが、そんなことは一向に気にしない。道徳は人間が踏み行わなければならないものであるから、このほかに生きようがないのである。渇しても盗泉の水を飲まずである。道に殉ずる者は、本当に尊い。伯夷・叔斉の兄弟は、道を信じて義に従い、独立独行して餓死するも顧みなかった忠節の士であった。「忠臣は二君に仕えず」「節婦は二夫に見えず」。愛と正義が最後の勝利となるように、道を信ずる者は強くして美わしい。韓文公の讃えた「伯夷の頌」は、その大要を申せば、人々の批判を気にせず自分の正しいと信ずるところに従う者はみな豪傑の士である。豪傑の士は、道を信じ義を重んずるから決して動揺しない。「千万人と雖も我往かん」の気概も、わが心に信ずるものがあってこそである。南洲翁も道のためなら、また国のためなら死を顧みなかった独立独行の士であった。
     
           

画像の説明

   感   懐

幾たびか辛酸を歴(へ)て志始めて堅し

丈夫玉砕して甎全(せんぜん)を愧ず

一家の遺事人知るや否や

児孫の為に美田を買わず
                          

この一詩は、人口に最も膾炙(よくしられる)せる有名なもので、この一つの詩だけで南洲翁の人と為りに接する思いがする。翁は生まれながらにして偉かったのではない。小さい頃から多くの生きた教訓に接し、深い学問を修め、しかも幾多の艱難辛苦を重ね、その上で志もいよいよ鉄石のように固まったのである。

そして、金や名誉はもとより命まで投げ出して、常に天道に従って国家と民生の為に尽くされたのである。
傷つかない瓦のように余生を完うしようなどとは少しも思わず、時至ればいつでも玉のようになって砕けることを念じておられた。

従って日常の我が身が一身上のことはもとより、子孫に対しても美田(多くの財産)を残しておこうなどとは、夢にも考えておられなかった。こういう心境が、この詩の中にありありと詠まれている。

南洲翁も沢山の詩を残されているが、作詞を生活とせられたのでは勿論ない。ここでは、ただ艱難や赤貧に処しても動じない一つの詩を掲げたのに過ぎないのであるが、南洲翁の場合は栄達しながら栄達を栄達とせず、清貧をまもられたのである。

この事はなかなか常人ではできないことで、大西郷の偉かったのは、偉勲や功績だけではなく、こうした私生活の面にも実に偉かったのである。               

画像の説明

    除   夜

白髪衰顔意とする所に非ず (はくはつすいがんいとするところにあらず)
壮心剣を横たえて勲無きを愧ず (そうしんけんをよこたえてくんなきをはず)
百千の窮鬼吾れ何ぞ畏れん  (ひゃくせんのきゅうきわれなんぞおそれん)
脱出す人間虎豹の群     (だっしゅつすじんかんこひょうのむれ)

髪が白くなったり、顔に皺の寄ることなどは何も気にするところではない。血気旺んなる心を持ち、剣を横たえながら何の手柄もなく、国のために報ゆることが思いに任せられんことが甚だ残念で、愧ずかしい極みである。

明治九年暮れの大晦日に金銭の奴隷たる借金取りの鬼共が今うようよとつきまわっている。自分は、虎や豹のように剽悍な軍人の群れから出た男であるから、借金取りの鬼共は少しも恐れるに足らぬ。これが、この詩の字解である。

ところで、南洲翁の父には借金があってそれはとおに倍額にして返金されたことはあるが、南洲翁自身には一銭の借金もなかった。そこで借金取りの鬼共といわれたのは、南洲翁暗殺団のことを風刺されたものと解すべきである。この暗殺団というのは、実は警視庁巡査隊による偵察団であったのであるが、それが明治九年の暮れに鹿児島に入っているので、この詩には「除夜」と題して借金取りの窮鬼とされたものであろう。

当時翁は一人の従者をつれて大隅の小根占の狩場におられたが、私学校では政府側の圧迫と翁の身辺を心配して、翁の弟の小兵衛と私学校員が急使として馳せつけ、告ぐるに鹿児島の形勢逼迫をつぶさに説き、奮起の已むなきを訴えた。翁は容を改めかつ大息して申さるるには「わが事ついに終わるわれ死せり」と。

かくして鹿児島に帰り、若殿原(私学校党の若者)の為に起たれたのであって、これが明治十年の西南の役となるのである。
この詩はかかる事情のもとに詠まれたものであって、翁はまだ陸軍大将であったから百千の窮鬼、すなわち暗殺団などは少しも恐るるに足らぬ。とされたのである。

大西郷の遺訓と精神』南洲翁遺訓刊行会より
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